この記事の執筆は ”学長”です

フェリス女学院創設者メアリー・E. キダーについて~6月1日は創立記念日です~

本日6月1日は、フェリスの創立記念日です。1875年(明治8年)のこの日、居留地山手町178番地(現在のフェリス女学院中学校・高等学校の所在地)に、フェリス女学院大学の前身である「フェリス・セミナリー」の新しい校舎・寄宿舎が完成しました。そこで、今回はフェリス女学院の創設者であるメアリー・E. キダー(Mary Eddy Kidder, 1834-1910)のお話をしたいと思います。

メアリー・E.キダー

アメリカ改革派教会の宣教師となったキダーは、海外伝道を志し、1869年に横浜に到着しました。当時の日本には、いまだキリシタン禁制の高札が掲げられていました。江戸幕府末期の1867年には長崎の浦上村の隠れキリシタンが捕らえられ、流刑に処せられて拷問されるという事件(浦上四番崩れ)が起こっており、江戸幕府に取って代わった明治政府も当初キリスト教を厳しく迫害していたのです。

したがって、当時日本は、キリスト教の伝道を志す宣教師にとって極めて危険な国でした。それを知りつつ、遠く離れたアメリカから日本を目指したキダーは、パイオニア精神に溢れた、勇気ある人であったと思います。彼女はまさに、新しい時代を切り拓く女性でした。

「フェリス・セミナリー」の校舎・寄宿舎

キダーは、来日して、まずは新潟に赴きます。翌1870年には横浜に戻り、宣教師で医者でもあったヘボンこと、ジェイムス・C. ヘップバーン(James C. Hepburn, 1815-1911)の医院において、その妻クララが行っていた英語の授業を引き継ぎます。これがフェリス女学院の始まりです(1870年9月21日)。キダーは「知識を広げ、自ら思考する女性」を育てることを目的としていました。

生徒数が増えてヘボンの医院が手狭になると、キダーは新しい移転先を探します。しばらくの間、当時の神奈川県行政の中心地であった伊勢山の県官舎を借りて授業を行いますが、最終的に居留地山手178番地の土地を借り受けることができました。校舎を建てる資金は、アメリカの教会学校の生徒たちの献金が主体となりました。新しい学校をキダーは、「フェリス・セミナリー」と名付けましたが、それはキダーを送り出してくれた、アメリカ改革派教会外国伝道局の総主事であるフェリス父子に敬意を表してのことです(フェリスブログ5月28日版をご覧ください)。この学校は、キダーをはじめ、さまざまな人々の思いと願いが結晶となったものでした。

キダーがフェリスにいたのはそれほど長くはありません。1881年には、2代目の校長となるユージン・S. ブース(Eugene S. Booth, 1850-1931)に学校経営を託し、伝道活動に精力を傾けることになります。彼女は、1910年6月に天に召されるまで、東京、長野、高知、盛岡などで活発に伝道活動を繰り広げますが、とくに盛岡の伝道は、1888年から14年におよびました。彼女は、東京染井墓地に葬られますが、後に学校の希望により、横浜山手の外国人墓地に移されています。皆さんも一度キダーに会いに行ってみませんか。

横浜外国人墓地内のキダーの墓
横浜外国人墓地にあるフェリス関係者の墓。右:キダーの墓。

学長 荒井 真