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ロシアと中国の架け橋ニコラエ・ミレスク

国際交流学部 国際交流学科
福島 仁准教授

後にスパファーリイとなるニコラエ・ミレスク(Nicolae Milescu)は1636年にモルドヴァ公国のヴァスルイ(Vaslui)で生まれました。生地は現在、ルーマニアの北東部に位置し、旧ソ連のモルドヴァ共和国との国境まで40km弱の距離にあります。いまヴァスルイの図書館は彼を顕彰してその名を称しています。

当時、モルダヴィアはオスマン・トルコの支配下に自治を認められていました。ミレスクの先祖はギリシャのペロポネソス半島からモルドヴァに移り、父親はそこに土地を買い小貴族の娘と結婚し居を構えました。古来、ルーマニアは多くの異民族の侵入、通過、抗争する地でした。

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コンスタンチノープルのギリシャ正教神学校に進み、通常の課程とギリシャ語、ラテン語、トルコ語、アラビア語を修得しました。イタリアのパドヴァ大学にも留学しました。

このほかにロシア語はもちろん、フランス語やドイツ語も話せたので、語学の才能は卓越していたようです。

当時のルーマニアの分裂抗争の故に彼はロシアに亡命し通訳として使えました。おりしも中国との貿易交渉のため北京へ向かう使節団の長となり、一年半をかけてシベリアを横断し中国に到達しました。彼は北京で3カ月半を過ごすことになったのです。そこで出会ったのはベルギー人宣教師、フェルビーストでした。彼らはラテン語で会話を通じ、ミレスクは使節としての任を果たすことができました。さらには中国の文化、地理、思想、歴史について意義ある交流を行いました。ミレスクは帰国後、それらの内容を記した記録を表し、ロシア語で書かれた最初の中国文化論になっています。

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どうです。国際的な研究でしょう。ルーマニアの地は350年後に中国とソ連の思想的対決の場になります。これも因縁といえるのでは…