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オリンピックから〈遠い国〉とオリンピックに〈近い国〉

国際交流学部 国際交流学科
和田 浩一教授

2020年東京オリンピック・パラリンピック大会が決まりました。1964年の東京と1972年の札幌、1998年の長野を経て、日本では4回目のオリンピックとなります。これら以外にも名古屋と大阪、東京が開催地として正式に立候補したことがあります。つまり、日本はオリンピックと非常に親密な国だと言えます。

しかし、フランス人のピエール・ド・クーベルタン(1863-1937)が近代オリンピックを創ったとき、日本は地理的にも文化的にも〈オリンピックから遠く離れた国〉でした。1909年にアジア初の国際オリンピック委員会委員に就任した嘉納治五郎(1860-1938)が、次のように語ったほどです。「私がオリンピック委員に推薦された頃は、世間一般にオリンピックの()んであるかを知っているものは極めて少なかった」。つまり、日本はオリンピックに参加し始めたとき、実はオリンピックをほとんど知らない国だったのです。

このような日本に対し、クーベルタンの母国フランスを含むヨーロッパ諸国は、一体どのくらい〈オリンピックに近い国々〉だったと言えるでしょうか。日本とヨーロッパとを比較するこの問いを、古代オリンピックの終焉から近代オリンピックの誕生までに時間を絞りつつ、6つ視点から考えてみましょう。

01

古代オリンピックへの新たな眼差し

紀元前776年に始まった古代オリンピックは、宗教的な理由により、紀元後393年に最後の大会を迎えました。その後、古代オリンピックで使われたスタジアムやゼウス神殿などは、キリスト教以外の神殿を破壊せよという命令と、オリンピア地方を襲った大地震とによって、大きく破壊されてしまいます。しかも、破壊された施設はその後の度重なる洪水ですっかり土に埋もれてしまい、古代オリンピックの制度と姿は、人々の前からすっかり消え去ってしまいました。

それから約1000年のときを経て、古代オリンピックに再び光が当たり始めます。ルネサンスに入って古代ギリシャへの関心が急速に高まり、古代ギリシャ時代に書かれた文学作品が注目されるようになったのです。例えば、吟遊詩人ホメロスの『イーリアス』(紀元前8世紀頃)や、旅行家パウサニアスの『ギリシャ記』(160年から176年頃)には古代オリンピックの描写があり、人々は遙か昔の運動競技に思いを馳せることになりました。

02

シェイクスピアも知っていたオリンピック

劇作家・詩人として有名なシェイクスピア(1564-1616)の作品にも、オリンピックは登場します。

・『ヘンリー六世第三部』1590-91年
“And if we thrive, promise them such rewards/ As victors wear at the Olympian games.”
勝利の暁には、オリンピアで競技の勝利者が/受けるような栄冠を彼らに約束するのだ。(小田島雄志訳『ヘンリー六世第三部』白水社、1983年、p. 75.)

・『トロイラスとクレシダ』1601-02年
“And I have seen thee pause and take thy breath,/ When that a ring of Greeks have hemme’d thee in,/ Like an Olympian wrestling.”
そしてまたわたしは見た、あなたがギリシャ軍に/包囲されたなお、オリンピアの力士のように、/悠然と一息入れているのを。(小田島雄志訳『トロイラスとクレシダ』白水社、1983年、p. 181.)

シェイクスピアが自分の作品で“Olympian”という言葉を用いたという事実は、二つのことを意味します。一つは、シェイクスピア自身が古代オリンピックのことを知っていたということです。もう一つは、彼の作品を観たり読んだりした当時の人々が古代オリンピックについて理解できることを踏まえた上で、シェイクスピアが古代オリンピックに言及したということです。つまり、古代オリンピックは、当時の教養のある人々に広く知られていた存在だったのです。

03

オリンピア遺跡の発見

古代オリンピックは、文学作品の中だけに(とど)まってはいませんでした。1776年、イギリス人のチャンドラー(1738-1810)によってオリンピア遺跡の一部が発見されると、古代オリンピックへの関心は一気に高まります。作り話だと思われていた世界が現実にあったことを示すオリンピア遺跡の発見は一大ニュースとなって、ヨーロッパ中を駆け巡ったからです。古代オリンピアが度重なる洪水により土で埋まってしまったため、その姿を目にすることができなかった当時の人々は、文学作品で描かれた古代オリンピックの話を、架空の物語として考えていたのでした。

その後、1829年にはフランス発掘隊がゼウス神殿の一部を、1875年から1881年にかけてドイツ発掘隊がオリンピア聖域の中心部を発掘しました。これらの発掘成果は1878年のパリ万博における「オリンピア遺跡」の展示につながり、古代オリンピックの情景は、パリを訪れた多くの人々のまぶたに焼き付けられることになったのです。

04

「オリンピック」という名を冠する祭典やイベント

考古学的な研究が進むにつれ、「オリンピック」という名をつけたイベントが、ヨーロッパ各地で見られるようになりました。ビートルズで有名なイギリスのリバプールで開かれた、リバプール・オリンピックという名前のイベントは(1863、1864、1866、1867)、その一例です。

このようなイベントの中には、近代オリンピックに影響を与えたものもありました。1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭と、ギリシャで開催されたオリンピック競技会です。近代オリンピックの創始者クーベルタンは1890年にマッチ・ウェンロックを訪れて、古代オリンピアの香り漂う競技祭を楽しみました。このとき、主催者であるブルックス博士(1806-1896)から、後に近代オリンピックに取り入れることになった大会の国際化や開催都市の持ち回り、芸術競技の実施というアイディアを聞かされたようです。一方、1859、1870、1875、1889年にアテネで開かれたオリンピア競技祭と、1891、1893年に開催された全ギリシャ競技会は、第1回近代オリンピック大会のアテネ開催(1896)を受け入れる土台となりました。

05

近代体育の指導者たちとオリンピックの復興

現在、小学校から大学までの各種学校で経験する体育という教科は、18世紀の後半にドイツで生まれました。実はその当初から、古代オリンピックは注目の的でした。近代体育の父と呼ばれるドイツ人のグーツムーツ(1759-1839)は、1793年に発表した『青少年の体育』という本の中で、古代オリンピックについて詳述するとともに、オリンピックの復興を唱えています。また、トゥルネンと呼ばれる青少年教育活動を始めたドイツ人ヤーン(1778-1852)も、「ギリシャを訪れ、古代の競技場で体育祭を開きたい」と述べています。また、クーベルタンのライバルだったフランス人グルッセ(1844-1909)も、『身体のルネサンス』(1888)の中で、古代オリンピック復興のアイディアを表明しました。

06

聖書におけるオリンピック

「オリンピック」という言葉は現れませんが、宣教師たちの布教活動により、19世紀後半までには地球規模で読まれることになった聖書の中に、古代オリンピックを描写する一節があることも見逃せません。

『新約聖書』「コリントの信徒への手紙一」
24節.あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
25節.競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

以上述べてきたことは、ヨーロッパ諸国がどれほどオリンピックに〈近い国々〉だったのかを、網羅的に説明するものではありません。しかし、およそ日本の武士の時代に相当する中世以降のヨーロッパでは、文学作品や考古学、スポーツイベント、体育、キリスト教(聖書)といった多様な文化を通して、古代オリンピックのイメージが広がっていたと言えそうです。


■参考文献■
楠戸一彦先生退職記念論集刊行会編『体育・スポーツ史の世界:大地と人と歴史との対話』広島:渓水社、2012年、pp. 284-288.