Ferrisで学ぶ

映画と観客

文学部 英語英米文学科
福永 保代教授

『スミス都へ行く』(Mr. Smith Goes to Washington, 1939)は第二次世界大戦中に製作されたアメリカ映画です。利権がらみのダム工事を推進しようとする上院議員が急逝したことから、仲間の議員たちは彼らの意のままに動く後任議員としてボーイスカウトのリーダーをしていた田舎育ちの純朴な青年スミスに目をつけ、ワシントンに送り込みます。スミスは事情の分からないままに議員生活をスタートさせますが、やがて不正に気付き、政治の腐敗に立ち向かうことになります。

都会の悪ずれに対して際立つ田舎の純粋さ、単身で巨悪に戦いを挑むヒロイックな主人公、正義はたとえ打ちのめされたとしても最後には悪をねじ伏せる、といったテーマだけでなく、アメリカ建国の精神である自由と民主主義が高らかに謳い上げられた『スミス都へ行く』は大成功をおさめ、アカデミ一作品賞はじめ11部門でノミネートされ、オリジナル脚本賞を受賞しました。

この大ヒットをうけての日本公開は、1941年10月9日でした。ところが日本での評判は散々なものだったのです。当時の映画評には、「アメリカ民主主義の不備や汚点がこの一本に凝縮されている」といったものさえありました。何故だったのでしょう。

12月8日(日本時間)の太平洋戦争開戦まであと2か月という時期の公開であったことを考えれば、当時の対米感情がどのようなものであったかは容易に想像されます。純朴で正義感あふれる主人公がこれほどの苦難に遭遇しなければならないのは、アメリカという国の建国の精神そのものに問題があるからだ、と感じられたのでしょう。

太平洋戦争は1945年8月15日(日本時間)に日本の敗戦というかたちで終結したわけですが、その後、連合国軍総司令部(GHQ)の指導により戦後改革が行われました。日本に民主主義の基礎が固められていた頃、『スミス都へ行く』が再公開されることになりました。言うまでもないことですが、このときは大ヒットとなりました。「これぞアメリカ民主主義。民主主義の何たるかを理解したいのならば、この一本を見逃してはならない。民主主義万歳!」といった賛辞が溢れたのでした。

同じ映画が戦争をはさんだ別々の時期に公開され、全く異なる評価を受けたという事実は、映画の価値を決定するのが、映画そのものではなく、もちろん、映画の作り手でもなく、じつは観客であることを示しています。つまり、映画の価値というものは映画そのものに本来的に備わっているのではなく、観客である私たちがどのように受け止めるかによって決定されるのです。となれば、映画をみるということの到達点は、映画が意図する価値や意味を正しく理解することではありません。それをどう捉えるかということなのです。

映画を見て、感動したら、なぜ感動したのかを考えてみましょう。映画を見て、大笑いしてしまったら、なぜ面白いと感じたのかを考えてみましょう。映画の中の主人公に感情移入してしまったら、なぜ気持ちが重なってしまったのかを考えてみましょう。相互照射という言葉があります。ひとつのものは、結局のところ、別のものの明かりの中でこそ、ようやく自分を見つめることができる、ということです。映画をみるということは、自分自身がどうであるのかを見つめることに他なりません。