「文化遺産オンライン」(文化庁管理サイト)に吉田弥生教授の解説がアップされました

「文化遺産オンライン」(文化庁管理サイト)に吉田弥生教授(文学部日本文学科/2025年度よりグローバル教養学部文化表現学科)の解説がアップされました。

 
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平成24年(2012)年に国立劇場(日本芸術文化振興会)が河竹家より寄贈を受け、収蔵した歌舞伎狂言作者・河竹黙阿弥に関する資料です。

河竹黙阿弥は文化13年(1816)、江戸の商家に生まれ、遊蕩の若き時代を経て5五代目  鶴屋南北に入門し、劇界の人となりました。家業や病気のために幾度か作者部屋から離れましたが、江戸三座が猿若町に移転した天保14年(1843)11月の顔見世から河原崎座の立作者となり、2二代目河竹新七を襲名しました。黙阿弥は人気戯作や話芸を素材とした新作や、幕末の名優・四代目市川小團次と組んだ盗賊が活躍する数々の白浪物を書いて大当りを続け、文化・文政の隆盛に比して退潮の時を迎えていた江戸歌舞伎に再びの活況を取り戻した歌舞伎作者です。


明治期に入ると、時代の変革が芝居の変革を求める中で、9九代目市川團十郎や5五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らに、史実を忠実に描く活歴物や文明開化の新風俗を取り入れた散切物などの新作を書いて活躍しました。明治14年(1881)に引退を宣言して黙阿弥と改名後も、明治26年(1893)にその生涯をとじるまで作者としての活動を続け、「魚屋宗五郎」「加賀鳶」「船弁慶」「紅葉狩」等の現代も繰り返し上演される数多の作品を残しています。


黙阿弥の没後はその著作権等を守る河竹家の家督を長女の糸女が継ぎ、さらにその後は、坪内逍遥が介して河竹家の養子となった繁俊が継ぎました。ここに公開する資料の多くは、大正期の大震災から繁俊が守り、あるいは奇跡的に焼失を免れたものです。


自筆台本や絵看板の自筆下絵等からは、歌舞伎作者としての黙阿弥の仕事ぶりや、次女の琴女島女に受け継がれた画才が伝わり、家族への遺言状や書簡、糸女と繫繁俊の養子縁組に関する記録類からは、黙阿弥と周囲の人々の交流や河竹家の歴史が見えてきます。公人として、私人として黙阿弥はどのような人生を送ったのでしょうか。河竹登志夫氏まで続く作者の家が遺した逸品を通じて、幕末から明治へ、激動の時を生きた一人の歌舞伎狂言作者の真の姿をご覧ください。

資料解説 吉田 弥生

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